略年譜(伊昔紅)

金子兜太の父にあたる金子伊昔紅は、医師と俳人の2つの領域において活躍した人物であり、医師としては戦時中は軍医、戦後は金子医院を開院するなどし人々のために尽くしたとされています。俳人としては俳誌「若あゆ」の発行や、句集「秩父音頭」を刊行するなど俳句の普及や自身の作品の創作に活動されました。

金子伊昔紅(いせこう)の略年譜

明治22年 埼玉県秩父郡皆野町に生まれる。
明治37年 皆野小学校卒業。
明治42年 独逸学協会学校中学卒業。
明治43年 京都府立医学専門学校入学。
大正3年 同校効果を作詞し、角力部、ボート部、柔道部などに所属して活躍。
大正4年 京都府立医学専門学校を卒業。医師免許を取得し、同校付属療病院医院医員を拝命した。京都府下、岩倉病院に務める。
大正5年 宇都宮66連隊衛生部の1年志願兵として入隊、1年3ヶ月服務した。
大正8年 中華民国上海東亜同文書院の校医として上海に在住。
大正14年3月帰国、国神村金疇に開業のあと、皆野町に移り開業。
昭和4年 皆野町消防組頭、秩父警察署管内消防連合会副会長に就任。
昭和5年 秩父盆踊の歌詞を自ら作詞及び公募し、将来の節まわしや踊りの型を整えた。
明治神宮遷座10周年を記念する全国著名な8か所の古典神事舞の一つに秩父豊年踊の名で加えられ、奉納した。
昭和9年 皆野小学校校医に就任。秩父警察署管内消防連合会長に就任。
昭和11年 道場懐士館を建設し、柔剣道の普及に尽力した。
昭和14年 俳誌「若あゆ」を発行し、大いに青年たちをあつめた。
昭和16年 三沢診療所専任医師として、三沢地域の衛生管理に尽くし、また漢学塾「両忘会」をおこし論語などを講義した。
この活動には50名程度が集まり昭和33年まで続けた。
昭和20年 秩父郡市医師会長に就任。翌年には郡内荒川村地区に医師経営の結核病院を建設したが、この種の病院は全国唯一のもので10万円の補助金を2年間下賜された。
昭和21年 俳誌 月間「雁坂」創刊。以後200号まで刊行される。
昭和22年 秩父郡市医師会病院長に就任。
昭和24年 俳誌「馬酔木」同人となる。
昭和25年 秩父豊年踊を「秩父温度」と改変し、埼玉県下小中学校の集団体技に採用された。帯広で開催された全国レクリエーション大会(第4回)で金子社中の囃しによる秩父音頭が民謡部門優秀第1位と評価された。
昭和27年 皆野町教育委員会委員に選任される。
昭和30年 秩父音頭歌詞公募、秩父音頭家元碑建碑。
昭和31年 月例句会として秩父馬酔木会を結成。
昭和39年 句集「秩父ばやし」刊行。また宝登山神社境内に句碑建立。
「たらちねの母がこらうる子の種痘」
昭和40年 皆野町名誉町民第1号に推挙される。
昭和41年 皆野小学校校歌作詞。
昭和46年 勲五等瑞宝章を授与される。大日本武徳会から剣道範士剣道八段、及び柔道五段を允許された。
昭和47年 秩父音頭まつり、新作秩父音頭歌詞公募。
昭和49年 句集「秩父音頭」観光。蓑山々頂に「秩父音頭歌碑」建立。
昭和52年 88歳永眠。